それから式までの短い間、直前まで新田さんと打ち合わせをし、現場の状況とスタッフを資料と照らし合わせ、確認し、不安があれば躊躇わずに申し出た。実際その場にいないままにプロデュースを進めるという状況は、自分の足で歩いていないその感覚だけが鈍るものの、その他の面についてはなんの支障もなかった。クビをとおして逐一新田さんが報告をしてくれるし、資料はすぐにパソコンで共有できる。
一般病室の空きがなくて個室になったのが、これほど好ましい方向へ運ぶとは思わなかった。部屋にいる間、ずっと仕事のことに集中できる。外へ出たら出たで、仕事を遮断してリハビリに集中できる。談話室にまで歩いていけるほど回復すると、そこではなぜかわたしがウェディングプランナーであるという噂がしっかり広まっていて、退院したら自分もあなたに担当して欲しい、などと名刺をせがまれたりもした。わたしが病院にまで仕事を持ち込むことを快く思っていなかったであろう医師や看護師たちも、日が経つにつれて好意的になり、「楽しみだね」「頑張って」「無理は禁物ですよ」と気軽に声を掛けてくれるようになっていった。
その裏には、足しげくお見舞いに通ってくれた先輩の新田さんや、クビとその一連の機器を病室で使えるように病院側に直接交渉してくれたという上司の城崎さんの存在がある。わたしが心置きなく仕事にリハビリにと打ち込めるのは、あらゆる人たちの協力の賜物だ。わたしはそれを、仕事で返さなくてはならない。
そして、ついに花江夫妻の結婚式当日がやってきた。
わたしのクビは事務所で待機し、現場やスタッフの音声だけを拾って状況把握し、指示するボジションとして落ち着いた。花嫁のサポートなど、行動を伴うことは全面的に新田さんや衣装スタッフのほうにお任せしてある。一緒に選んだウェディングドレス姿の花嫁をこの目に収められないのは残念だったけれども、クビを知らない参列者が驚いてもいけないので、やはりおもてに出て行くことは憚られた。
『チャペル式、滞りなく終了しました。これから披露宴に移る準備に入ります』
「了解しました。お客様の誘導をよろしくお願いします。会場はスタンバイオッケーです」
『了解』
新田さんの冷静な報告を聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。式のほうは無事に執り行われたようだ。音声は聴こえていたけれど、やはり目視していないので、音とは無関係のところでなにかが起きていやしないかと不安でいっぱいだったのだ。
もう、あとは大丈夫だ。
披露宴のほうはベテランのスタッフが揃っているし、司会も機転が利くし癒される声だとお客様から評判のいい女性が担当してくれる。披露宴を盛り上げるのはむしろ参列者の方々ということもあるし、新田さんもいるし、大丈夫。大丈夫だ。
静かな気持ちで、ふと顔を上げた。
わたしはいま、病室にいる。本来ならば鬱々と退院を待つしかない状況下で、わがままを言って仕事を続行し、こうして初めての担当式を終えようとしている。夢みたいだ。わたしの周りには、いま誰もいない。誰もいないのに、クビをとおしてたくさんの人と繋がっている。
花江夫妻は、結婚式に満足してくれただろうか。美咲さんの夢は叶っただろうか。美咲さんの夢を叶えたいと願った俊晴さんの気持ちは、彼女にきちんと伝わっただろうか。
披露宴が始まり、遠く全体の音声だけが耳に届いてくる。和やかで温かい会場の雰囲気が目に浮かぶ。披露宴は、うちのチャペルのなかでも一番小さな会場で行われている。少人数でのアットホームな式にしたいからと、ナプキンやカード、ウェルカムボードなど、手作りできるものは全部手作りで頑張っていた美咲さん。朝のうちに先輩に歩き回ってもらって全貌を確認したけれど、実に美咲さんらしい優しい演出だと感動した。その場にいられないことを、少しだけ悔やんだ。そう、ホンの少しだけ。
クビが映し出すのは事務所の扉。音声だけに集中するため、わたしはいつしか目を閉じて耳を澄ませていた。感動的な友人代表スピーチ。余興では、あまりのおもしろさに新郎が大笑いして涙まで流したようだ。あのちょっと澄ましたような男性でも爆笑することがあるんだな、と妙に感慨深い気持ちになる。そして、初めて見た結婚式を思い出す。綺麗だったお姉ちゃん。スマートに働いていたにこやかなスタッフたち。幸せそうな参列者たち。泣いていたおじさん。懐かしい記憶のなかに、花江夫妻の映像が重なってゆく。みんなが笑っている。それだけはわかる。だって会場にはこんなにも明るい笑いが溢れているのだから。
と、唐突にその音声が途切れた。
故障? バッテリー? ドキッとして目を開けてパソコンを覗いてみると、画面はしっかりと映っていた。遠隔操作で左右に視線を飛ばす。部屋には誰もいない。音が繋がっていない。途端に鼓動が走り出す。披露宴がもう問題ないのはわかりきっている。けれど音さえも届かなくなるなんて苦しい。せめて、せめて音だけでも。
冷や汗が出てくる。そうだ、電話。新田さんに電話して確認をしてもらおう、それから……と焦ってスマートフォンを枕元から取り上げるのと、事務所のドアが開くのはほぼ同時のことだった。
「……新田さん」
緊張した面持ちの新田さんが、コツコツとヒール音を響かせながら入ってくる。そのまま、クビの目の前で立ち止まった。
『乾さん』
「に……に、新田さん、新田さん、あの、音声が」
あれ。新田さんの声は聴こえる。ヒールの音も。ということは、意図的に会場の音声を遮断されている?
『ちょっと動かないでじっとしててね』
「……は、はい……?」
わたしの声はオール無視。宥めるような笑い方で覗き込んできた新田さんの顔を認めた次の瞬間、視界がグワッと揺らいだ。クビが持ち上げられたのだ。
「に、新田さん……!」
目線を考えて、新田さんの胸元に前向きに収まっているかたちのようだ。そのままコツコツと進んでいき、事務所を出て廊下へ進む。滞ることのない足取りに、向かう先は決まっているのだとわかった。でも、この道は。この先は。
『では、登場していただきましょう。このたびおふたりを担当させていただきましたプランナー、乾美佐子です』
司会者の声が届き、重々しいドアが両側からスタッフによって開かれてゆく。スポットライトが当たる。先輩の足が、ゆっくりと披露宴会場に踏み入っていくのがわかる。歩みの揺れとともに、近づく顔がある。たくさんの視線と拍手の向こう岸で、まっすぐにわたしを見つめてくれている美しいひと。
彼女はあの日決めたプリンセスラインのドレスに身を纏い、マイク前に立っている。やっぱり本当のプリンセスみたいだと思った。このドレスを俊晴さんの隣で着るために、彼女はここまで生きてきたのだとさえ感じた。
半歩後ろに控えめな新郎の俊晴さん。その反対隣に落ち着く頃には、新田さんの腕のなかのわたしにすべての視線が集まっていた。
『乾さん』
新婦の声がマイクを震わす。わたしが反射的に視線を飛ばすと、クビが動いたことに小さなどよめきが起こった。
『ご自身がつらい状況に遭われたのにもかかわらず、わたしたちの結婚式を最後まで受けもってくださって、本当にありがとうございました。……わたしの夢は、幸せなお嫁さんになることでした。……でも、乾さんに出会ってから、少しずつ変わっていきました』
「……え?」
『わたしの夢は、乾さんにも幸せに感じてもらえるような結婚式を挙げること。乾さんにはたくさんのものをもらいました。幸せのお裾分けじゃなく、ひとつずつ相談して作っていくことで、一緒に幸せになりたいなって思ったんです。俊晴くんが嫉妬しちゃうくらい、わたし、乾さんが好きだから』
『おいおい、浮気かよ』
絶妙なタイミングで俊晴さんがつっこみ、会場はドッと笑いに包まれた。だめだ、でもわたしは笑えない。全然笑えない。
『乾さん。乾さんはいま、幸せですか? 少しでも……わたしたち、少しでも乾さんを幸せにできましたか?』
会場内が一瞬でしんとする。
もうダメだ。堪えられない。こんなに大勢の前で崩れるなんてプランナーとして失格かもしれない。でも、でも今日だけは許して欲しい。幸せすぎて零れる涙は、意思の力では止められないのだから。
「……っ」
声が出せない代わりに、クビがうなずく。時間差で、割れんばかりの拍手が渦になって押し寄せてきた。もうなにも見えない。
『よかったね、乾さん』
拍手の手前で、鼻声の新田さんがそう囁いたのが聴こえた。