「……はい、わかりました。引き継ぎます。問題ありません、はい。……はい、……」
目を開ける直前、夢の中で聴いていたのは新田さんの声だった。それまでは、従姉妹のお姉ちゃんの結婚式で、幼いわたしが美しい花嫁の姿にわけもわからず感動して泣いている姿がアップで映し出されていたのに。
お姉ちゃんの結婚式。忘れもしない、わたしの運命を決めた瞬間。白いタキシード姿の見知らぬお兄さんの隣、お姉ちゃんは最高に幸せそうに笑っていて、キラキラしていて、とにかく綺麗だった。当時のわたしは、初めて体験する結婚式という明るく光に満ち溢れた場で、泣いてはいけないと思いつつもワンワン泣いたのだった。魔法みたいだと思ったのだ。だってこんなにたくさんのキラキラを、わたしはそれまで見たことがなかったから。
その結婚式に参列したことがきっかけで、わたしはウェディングプランナーの道を歩むことに決めた。そうして小さなチャペルに就職を決め、先日、ようやく新人プランナーとして初めての担当を始動したばかりだった。
重い瞼を押し上げる。最初に見えたのは白い天上だ。
「あ。目が覚めた?」
ぼんやりしているわたしの目の前に、ニュッと女性の顔が現れた。
「……新田さん」
「気分はどう?」
「……気分、は……」
柔らかく微笑むいつもどおりの先輩の顔を眺めているうちに、天井の白さがぐんと際立ち、記憶から剥げ落ちていた現実が一気に迫ってきた。残業をした帰り道。街灯の明かりが射す夜の住宅街には、雨が降っていた。傘を差して歩く後ろから、唐突に大きなスリップ音が聴こえたその直後、衝撃とともにすべての視界が消えたのだった。
そうしていま、ここにいる。
「足の骨折以外はほとんどかすり傷だったって。不幸中の幸いよね。一ヶ月程度で退院できるってさ。あんた強運」
「……仕事は」
「え?」
「わたしの担当はどうなるんですか?」
口に出した途端、夢の最後に割り込んできた新田さんの台詞が、脳裏で鮮明に再生された。 「そのことなんだけど」
キリッと決まったショートヘアの頭をぽりぽり掻きながら、彼女はスッと腰を下ろした。その動きに合わせて視線を向けると、部屋の雰囲気がなんとなく視界に収まってくる。どうやら個室のようだ。ほかにベッドが見当たらず、そういえば不思議なほどしんとしている。新田さんの背後に見えるドアの窓からは、廊下の薄暗い明かりがぼんやりと主張していた。そうか。まだあの夜の続きなのだ。病院内は寝静まっているということか。
「乾(いぬい)さんは治療に専念しなさい。わたしが後を引き継ぐから」
「そんなっ……」
「向こうの過失だからあなたは悪くない。けれど仕事に穴をあけることはできないでしょう? 現実問題として、あなたは出勤できない。もちろん、病院でお客様と打ち合わせなんてもってのほか。だったら別の人間がやるしかないの。わかるよね?」
ひとことひとこと噛みしめるように諭される。そんなことわかっている。それでも、この仕事はわたしにとっては特別なものだったのだ。プランナーとして初めての担当であるという以上に、思い入れの強い大切なお客様だったのだ。諦めたくない。
「わたし、やりたいです」
細い声しか出なかった。自分を責める気持ちばかりが湧き上がってくる。確かに、事故自体にわたしの責任はない。けれども、それによって仕事を放棄してしまうのは事実で、「責任を持って担当させていただきます」と言い切った言葉を反故にしてしまうのも事実で、「乾さんでよかった」と笑ってくれた花江夫妻の信頼を裏切ってしまうのもまた、事実なのだ。事故に遭うとわかっていれば、もう五分でも早く切り上げて帰ったのに。無理やりにでも、あの瞬間を回避したのに。
先輩のどこか冷めていた表情が、そこで初めて歪んだ。いままで表立っていなかった感情が徐々に露わになる。悲しそうに眉をハの字に下げ、唇をキュッと引き結ぶ。口角が微かに上がると、頬がフルフルと震え始めた。
「無茶言わないの。命が助かっただけでもよしとしなきゃ。これからいくらでもチャンスはあるよ」
「でも。もう、同じお客様は二度といらっしゃいません。ウエディングは一生に一度です。花江様にとってのプランナーも、ひとりきりなんです」
そのひとりきりにわたしがなりたい。世界でたったひとつだけの、特別な幸せをわたしがプロデュースしたい。
かつてわたしが夢を見つけた同じシチュエーションで、新婦の美咲さんはわたしとは違う夢を持ったという。やはり親戚の結婚式で、普段の生活空間とはかけ離れた華やいだ場所と演出に魅せられ、「わたしもいつか幸せな花嫁さんになりたい」と強く願ったのだ。同じようなものを体験したのに、片や主役に憧れ、片や裏方に憧れる。わたしの名前は「美佐子」という。原点が同じなのに枝分かれしたようなわたしたちを照らし合わせ、「美佐子と美咲の違いくらい違って、おんなじですね」とよくわからないことを言い、美咲さんは嬉しそうに笑ってくれた。それがわたしも嬉しかった。この人を「幸せな花嫁さん」にするのが、自分の使命だとさえ感じた。
それなのに、こんなことですべてがわたしの手から離れていってしまうなんて堪えられない。
「乾さんの気持ちはよくわかる。でもね、どうやって乗り切ろうっていうの。なにか策があって言ってるの?」
「そ、それは……その、あの。分身の術とか」
「……なにもないってことね」
打ちひしがれて黙り込んだわたしを見て、新田さんがやれやれといった表情でため息をついた。
「まあね、突然こんな状況になってもなにも浮かばないって。ごめん、いじめた」
「いえ。新田さんの言うことが正論だってちゃんとわかってます。わたしのほうこそ、駄々っ子みたいなこと言って申し訳ありませんでした」
「駄々っ子ね。確かに」
暗くなり始めた空気を蹴散らすようにケタケタ笑って、彼女はスッと立ち上がった。見上げるわたしに、いつもどおりの強気な微笑をくれる。 「一応、城崎さんにあなたの熱意は伝えておく。でも結果は期待しないで。オッケー?」